釈迦の『人間の実相』の譬喩

 「人間の実相」の譬えを聞いた。

釈迦の説かれた教えを「仏教」という。

仏教とは、釈迦の説かれた教え。釈迦が、三十五歳から八十歳まで説かれた教えが「仏教」。
「仏教」とは、何を説かれたのか。それは「人間の実相」。「人間」というのは、私たちのここと。「実相」というのは「本当の姿」。本当の人間の姿を「人間の実相」という。
 最も知らねばならないのは、人間とは、どんなものかということ。「人間」とは「自分」のこと。
「汝自身を知れ」といわれるように、本当の自分を知ることが、最も大事。
 釈迦は、まず「人間の実相」を説かれた。これは古今東西の人間の姿。千年前も、何万年前も、何十万年前も変わらない姿。昔は、こうだったけれども、今は違うということではない。それが「古今」ということ。今、地球に七十数億の人がいる。全人類全ての人間の姿。

 本当の人間の姿を知るのは大変。釈迦は譬えで教えられた。これは非常に有名な譬え。誰も文句のいえない、「ここは違う」とは、誰も言えない譬え。
 釈迦が、有るとき、大勢の参詣者を前に、こういう譬えを話された。
 幾億年も前、一人の旅人が、ぼうぼうと草の生い茂る、無人の広野を歩いていた。季節は寂しい秋の夕暮れ。旅人が歩いていると、やがて、何か白い物が道に落ちているのに気がついた。最初は、気にも留めなかったのだが、だんだん白い物が増えていったので、ひょっと拾ってみたところ、旅人は「あっ」と驚いた。それは人間の白骨。
 なぜ、こんな所に人間の白骨があるのか。あたりを見渡すと、ここは火葬場でもなければ、墓場でもない。それなのに、どうして、こんなに白骨があるのか。旅人が考えこんでいると、向こうから異様なうなり声が聞こえてきた。
 闇の中を見ると、餓えた大きな虎が自分に向かってくる。旅人は瞬時に、白骨の意味を知った。これは、自分と同じように旅をしていた人が、あの虎に食われた残骸なのだ。そして旅人は、自分も同じように、白骨にならなければならないことを知り、必死に逃げた。
 ところが、あんまりにも一生懸命、走ったので、道を間違えて、断崖絶壁に追い詰められた。もう虎は、すぐそこまで近づいている。旅人は絶体絶命。しかし幸いにも、ここに一本の松の木があり、その根元から藤ヅルが縦下がっているのを見つけた。旅人は、ずるずるーと、その藤ヅルを降りていく。
「やれやれ、これで安心」と旅人は思ったが、虎は、もう少しの所で獲物を逃して、無念そうに吠え続けている。旅人は、ブルブルと震えたが、どんな恐ろしいことでも、どんな悲しいことでも、続かない。
 やがて旅人は、自分がどんな所にぶら下がっているのか、下を見た。すると旅人は、アッと驚いた。下は、底の知れない海。波が白い牙をむいて絶壁に押し寄せている。そして波間からは、青と赤と黒の三匹の毒竜が、真っ赤な口を開けて、旅人が落ちてきたら、一飲みにしようと、炎を吐きながら待ち構えている。
 旅人は、何と恐ろしい所にぶら下がっているのかと震えたが、その気持ちもまた、続かない。やがて旅人は空腹を覚えた。あまりにも一生懸命、走ったので、空腹を感じた。それで、どこかに食べ物がないかと上を見た時に、旅人は、虎を見た時よりも、深海を見た時よりも、三匹の毒竜を見た時よりも、もっと驚くべき物を見た。
 旅人が捉まっている藤ヅルを、白と黒のネズミが、交互にガリガリとかじりながら回っていいたのだ。旅人は、空腹も忘れ、なんとかネズミを追っ払おうと藤ヅルを激しく揺さぶった。
 どれだけ藤ヅルを激しく揺さぶっても、ネズミは相変わらず、同じテンポで藤ヅルを囓り続けてた。やがて何かがポタポタと落ちてくるのに気付き、ひょっと受けてみると、それは蜂蜜だった。松の木の根元から藤ヅルが垂れていたのだが、そこに蜜蜂が巣を作っていたん。だから、旅人が藤ヅルを揺さぶる度に、蜂蜜が落ちてきた。旅人は蜂蜜をなめると、身も心もしびれた。空腹の所に、最高のご馳走が落ちてきたので、旅人は、もう蜂蜜のこと「しか」考えられなくなった。旅人は、どうすれば、蜂蜜をよけいなめられるか、そのことばかり考えて、藤ヅルを揺さぶり続けた。
 ここまで釈迦が話されたとき、その国の王の「勝光王」が手を上げて、「お釈迦様! その話、どうかそこでおやめください。何と恐ろしい話でありましょう。旅人は、こんな所にいながら、蜂蜜のことしか考えていません。何と恐ろしいことでありましょう。恐ろしくて、聞いておれません」といった。
 そこで、釈迦は、この例え話が、何を例えられたのか、一つ一つ話をされた。

 釈迦が「旅人」に例えたのは、全ての人のこと。歌でも、よく人生を旅に例えている。私たちは旅人だから、じっとはしておれない。
 旅人なら、どこから来たのか。どこへ向かっているのか。それは分からないが、一ヵ所にとどまることはできない。昨日の旅が終わって今日の旅が始まり、今日の旅が終われば、明日の旅が始まる。去年の旅が終わって今年の旅、今年の旅が終わって来年の旅が始まる。
 女性の人生で言うと、一休は「世の中の 娘が嫁と花咲いて 嬶としぼんで 婆と散りゆく」といっている。娘から嫁、嫁から嬶、嬶からお婆さんへと、どんどん変わる。じっとはしておれない。これは、何時の時代の人間も、同じこと。

 釈迦は、旅人が歩いていると説いているが、それは、ぼうぼうと草の生い茂る無人の広野、しかも季節は秋の夕暮れと説かれている。秋の日は短い。それは、人生は寂しいものだから。
 なぜ人生は寂しいのか。無人の広野を、一人で歩いているからだ、と釈迦は教えられている。釈迦はお経に、
┌────┐
│独生独死│
│独去独来│
└────┘
 生まれた時も独りなら、死んでいく時も独り。独りでやって来て、独りで去る。この釈迦の言葉を、分かりやすく歌で、こう言われている。
「独り来て 独り死にゆく 旅なれば つれてもゆかず つれられもせず」
 人生は一人来て、独り死んでいく旅、「あの人は好きだから」といって、連れていくこともできない。また、誰かに連れていってもらうこともできない。

 肉体の連れはいるが、魂の連れはない。
 友だちがいれば、困った時に相談することができるが、私たちは、「これだけは、誰にも言えない」というものを持っている。これだけは、友だちにも言えない、親にも言えない、子にも言えない、夫にも言えない、妻にも言えない、というものを持っている。「あの人になら、何でも言える」という人がいるが、人に言えるのは、その程度のことだけ。これだけは誰にも言えない、また言っても分かってもらえない、というものを皆、持っている。そういう秘密の心がある。

 また、こういう歌もある。
「むつまじき 親子にだにも すてられて 独りゆくべき 道と知らずや」
①「むつまじき 親子にだにも すてられて」──「すてられて」というのは、親子でもわかってもらえない、ということ。
②「独りゆくべき 道と知らずや」──人生は「独りゆくべき道」。これが人生。「独りゆくべき道」というのは、死んだ後だけではない。

 旅人が「白骨」を拾って驚いたとは、人が死んだと聞いて驚くこと。毎日、ニュースを見ていると、誰が亡くなったとか、火事で亡くなったとか、そういうのを聞かない日はない。私たちは、まさに白骨の野原を歩いている。日本の人が、「アフリカの人が亡くなった」と聞いても、驚かないが、身近な人が亡くなると、驚く。「ええ! あの人が! 昨日まで元気だったのに……」と思う。
 他人が亡くなったのを聞いて、ドキッとするのは、自分もやがてそうなることに気付くから。しかし、驚くのはその時だけで、すぐ「あの人は、ああいう病気だったから」とか、「あの人は生まれつき弱かったから」といって、安心する。それでも、他の人が死んだというのを聞いて驚くのは、自分もそうなると気付くから。

 では、なぜ「白骨」になるのか、虎に食われたから。この餓えた虎に例えられたのは「無常の風」。人は病では死ねないが、無常の風に吹かれたら、ひとたまりもない。「あのお爺ちゃん、もう長くないそうだ」と言われる人が、まだ生きているのに、若い人が交通事故で、コロッと亡くなったりする。
「無常の風」だけは、どれだけ科学が進歩しても、どうすることもできない。

それを蓮如上人は、こう言われている。
┌────────────────┐
│上は大聖世尊より始めて、    │
│下は悪逆の提婆に至るまで、   │
│逃れ難きは無常なり(三帖目四通)│
└────────────────┘
 釈迦も、八十歳で逝去した。提婆というのは、釈迦を殺そうとした極悪人。その提婆も死んだ。どんな人も、絶対、まぬがれることのできないのは「無常」。
 一人一人、後ろに無常の虎がいる。しかし、見てもわからない。何とか、死なないように、死なないようにとしているのだが、最後は虎に食われる。それでも私たちが生きていけるのは、蜂蜜のおかげ。蜂蜜に心を奪われて、蜂蜜のことしか考えていないから、それで虎のことも忘れられる。

 

旅人は、虎から必死に逃れるために走ったのだが、途中で道を間違えて断崖絶壁に追い詰められた。しかし、幸い松の木の根本から、藤ヅルが垂れているのを発見し、ズルズルと降りた。虎は、もう少しのところで、みすみす獲物を逃して、残念無念とほえ続けている。
 藤ヅルは、旅人にとっては命綱。この藤ヅルのおかげで、虎の難を逃れた。釈迦が「藤ヅル」に譬えたのは、私たちの寿命。今日ならば医学の進歩で七十年、八十年まで延びたが、百年生きたといっても、長い地球の歴史から比べたら、あっという間。まして七十年、八十年の命なんか、あっという間なので、細い藤ヅルに譬えられている。
 旅人が、食べ物を探そうと思って上を見たときに、その藤ヅルを白と黒のネズミが囓っているのを見た時が、いちばん驚いた時。
 藤ヅルを、白と黒のネズミが、ガリガリ交替で囓りながら回っているとは、白のネズミは昼を、黒のネズミは夜を譬えられた。昼と夜が、私たちの命をだんだん縮めている。
 昼は白のネズミが、藤ヅルを囓っている。夜になると今度は黒のネズミが囓り始める。自分は藤ヅルを最後、白のネズミにかみ切られるか、黒のネズミにかみ切られるか、考えたことがるある?

 旅人が、藤ヅルを揺さぶって、何とかネズミを追い払おうとしたとは、私たちは病気になると、医者に行く。何とか、命を延ばそうとするのだが、やがて必ず、白か黒のネズミが藤ヅルをかみ切られる。

それは蓮如上人が、
┌────────────────┐
│上は大聖世尊より始めて、    │
│下は悪逆の提婆に至るまで、   │
│逃れ難きは無常なり(三帖目四通)│
└────────────────┘
と言われているとおり。

 旅人が下を見たときに、下は底の知れない深い海だったと説かれるのは、藤ヅルをかみ切られたら、堕ちるところ。「死んだらどうなるか」ということ。
「底の知れない深い海」に譬えられたのは「地獄」のこと。「地獄」と聞くと、誰かが造って、そこに堕とされると思う人がいるが、仏教で説かれる「地獄」とは、自分のやった悪い行いによって、自分で生み出すもの。地獄というのは、自分の悪業が生み出す世界。それを歌ったのが、この歌。
┌────────────────┐
│火の車 造る大工は なけれども │
│    己が造りて 己が乗りゆく│
└────────────────┘
「火の車」というのは、「あそこ家の家計は今、火の車だそうだ」という言い方は、今はしないかもしれないが、ちょっと前までは、そう言えば分かった。「火の車」というのは「地獄」。火で焼かれて苦しむので。この歌が作られたときは、車を造っていたのは大工。今はトヨタとか日産とかホンダとか、そういう会社が作っているのだが、この当時も「荷車」や「四輪車」があって、大工が造っていた。しかし、地獄というのは、誰か造った人がいるのではなくて、自分で造って自分がそこに堕ちていく、と教えられたのが「己が造りて 己が乗りゆく」ということ。

 では、どんな悪を造っているのか。それを譬えられたのが青と赤と黒の毒竜。「青」というのは「欲」の心。「欲」というのは、キリがない。どれだけあっても、もっと、もっとと広がっていく。「青」というのは「深ーーい」ことを表す。私たちは欲が深いので、青い竜に譬えられている。
「赤」というのは、怒りの心。これは、腹を立てると、かーっとなるので、わかりやすい。腹を立てて、親を殺したり、あるいは子どもを殺したりしている。
「黒」というのは、ねたみそねみの心。これは醜い心、汚い心だから「黒」に譬えらる。仏教で、よく青鬼とか赤鬼とか譬えられてるのは、欲や怒りの心を譬えられたもの。

「藤ヅルが切れたら、必ず地獄に堕ちると釈迦が説かれた通りだった」と親鸞聖人が仰ったのが、
┌───────────────────┐
│いずれの行も及び難き身なれば、    │
│とても地獄は一定すみかぞかし(歎異抄)│
└───────────────────┘
という言葉。
 藤ヅルが切れたら、堕ちるしかない。「すみか」とは、家みたいに「離れられない」ということ。「藤ヅルが切れたら、必ず地獄に堕ちると釈迦が説かれた通りだった」と、親鸞聖人は身をもって知らされて、『歎異抄』に、このように仰っている。
「自分は、そんな地獄に堕ちるような悪を造っているのだろうか」と思うのは、本当の自分の姿を知らないだけ。

 これが、釈迦の説かれた「人間の実相」の譬え、『なぜ生きる』という映画で、蓮如上人が、このように仰っている。

------------↓ここから------------
私たちはやがて必ず、
土左衛門にならねばならぬのに、
どう泳げばよいのか。
泳ぎ方しか、考えておりません。

私たちは生まれると同時に、
どう生きるかに一生懸命です。

少しでも元気がないと
『頑張って生きよ』と、
励ますでしょう。

 だが、少し考えてみれば、
おかしなことです。

やがて必ず死なねばならないのに、
なぜ苦しくても
生きねばならないのでしょうか。
おかしな話ではありませんか。
(シナリオブック39ページ)
------------↑ここまで------------

 ┌───┐┏━━┓
「│泳ぎ方│┃しか┃考えておりません」──
 └───┘┗━━┛
これが、旅人が「蜂蜜」のこと「しか」考えていない、ということ。
┌────────────────┐
│やがて必ず死なねばならないのに、│
│なぜ苦しくても         │
│生きねばならないのでしょうか。 │
└────────────────┘
 やがて必ず藤ヅルがかみ切られる。それなのに、旅人は、どうしたら蜂蜜をよけいなめることができるか、それ「しか」考えていない。やがて必ず藤ヅルがかみ切られる、蜂蜜どころではない。それなのに、蜂蜜のことしかかんがえていないから、バカやないか!と思う。
 それで勝光王は、「この旅人は、バカじゃないですか! こんな恐ろしい所にいながら、バカじゃないですか。恐ろしくて、聞いておれません」といった。
 本当は、この旅人は、バカでないか!といいたい所ですが、映画では、「バカやないか」とは言えないので、蓮如上人は、やんわりと、
「おかしな話ではありませんか」
と仰っている。

 旅人は、上に虎がいることも、下に海があることも、藤ヅルをネズミがかじっていることも、全部、知っていた。その都度、驚いていた。
 それなのに、蜂蜜をなめたら、身も心もしびれて、他のことは全部忘れて、蜂蜜のことしか考えられなくなった。それほど蜂蜜の力はすごい。
 では、五滴の蜂蜜とは何か。五欲のこと。
 食欲というのは、美味しい物を食べたい、飲みたい。それしか考えていない者ばかりじゃないの? 旅人と同じ。
 財欲とは、一円でも多くほしい。一円でも安い店に、ガソリン代五円、使って行く。どうすれば儲かるか。次の色欲。また名誉欲。「私は輝きたい」と言っている。他の人が輝いていたら、自分はちっとも輝かない。輝きたいというのは、他の人はみな、暗くなって欲しいということ。これが名誉欲。親鸞聖人は名利の大山に迷惑してと仰って、輝きたい心いっぱいだ、他は暗くなって欲しいという心いっぱいだという仰っている。
 どうすれば五欲を満たすことができるか。それしか考えていないということが、生き方しか考えていないということ。政治、経済、科学、医学、法律、スポーツ、みんな、どうすれば五欲を満たせるか、ということ。

それなら、五欲を離れて生きられる?それはできない。それを親鸞聖人は、「いずれの行も……地獄は一定すみか」と仰っている。
 では、私たちは、どうすればよいのか。そんな者を、そのまま助けるために、弥陀が造られたのが大悲の願船。大悲の願船は、五欲を持ったまま、乗せて下さる。では、どうすれば乗せて頂けるのか。聞く一つ。

 

若不生者のちかいゆえ
 信楽まことにときいたり
 一念慶喜するひとは
 往生かならずさだまりぬ

 

 聞く一つで乗せて下さるから「一念」と仰っている。聞く一念で乗せて下される。乗せて頂いたら躍り上がって喜ばずにおれなくなるから「一念慶喜する」といわれている。
「一念慶喜するひとは」とは、大悲の願船に乗せていただいた人は、ということ。
「往生」とは、死んで弥陀の浄土にいって仏に生まれること。この大悲の願船は、阿弥陀仏の極楽浄土に向かっている船だから、必ず浄土へいける身になる。地獄一定に対して極楽一定になる。
 この大悲の願船に乗せていただく以外、助かる道はないので、釈迦は仏教の結論として「一向専念無量寿仏」阿弥陀仏一仏に向かって専念せよと、言い残されている。
 先ほどのご和讃に、
「若不生者のちかいゆえ
 信楽まことにときいたり」
聞く一つで大悲の願船に乗せると、阿弥陀仏が命を懸けて約束しておられるから、どんな人も必ず、大悲の願船に乗せていただく時がくる。

 蓮如上人は、白骨の章の最後に、こう教えられている。

誰の人も。すべての人が、この愚かな旅人と同じ。
後生の一大事──これは、藤ヅルが切れたら、墜ちるところ。後生とは、後世ともいう。

こういう歌がある。

後の世と聞けば遠きに似たれども──後生とか後世と聞くと、まだまだ先のことのように思う。あの旅人と同じ。細い藤ヅルをワイヤーみたいに思っている。
知らずや今日もその日なるやん──若い人でも、もう藤ヅルが絹糸のようになっているかも知れない。しかし、それを知らない。藤ヅルが切れるのは、今日かも知れない。今日とも知らず、明日とも知らず、と蓮如上人は仰っている。

後生の一大事を心にかけて──自分は、このバカな旅人と同じだと驚く心。

阿弥陀仏を深くたのみまいらせて──蓮如上人は、御文章のいたるところに、弥陀をたのむ、たのみ、たのめと仰っている。たのみとは、あて頼りになったこと。今日は、お願いするという意味になっているが、どうか大悲の願船に乗せて下さいと、お願いすることではない。私たちに、そんな心はない。蜂蜜のことしか考えていないのだから。
これは、早く大悲の願船に乗せて頂きなさい、ということ。そして、お礼の念仏をとなえる身に、早くなりなさいよ、と仰っている。
 蓮如上人は、ここまで無常をずっとかかれて、最後に、このように教えられた。
 釈迦が人間の実相を説かれたのは、大悲の願船に乗せるため。